2014年4月22日火曜日

オノマトペってonomatopée、ちんぷんかんぷん

オノマトペって言われても、ちんぷんかんぷん
onomatopéeっていうフランス語由来らしいんだけど、うーん、頭がゴチャゴチャになってくる。

そう、まさにこれがオノマトペ。
ワンワン、トントンのような、物音や鳴き声などの音声を表わす擬声語。
ふらふら、さらさら、とぼとぼなどの擬態語。
これらの総称がオノマトペ。

世界中の言語にオノマトペは見られるけれど、日本語は特に多いんだって。
『日本語オノマトペ辞典』(小学館刊)によると、4500語あるらしい!!

確かに自分の生活の中でも、オノマトペで済ませちゃってることの、多いこと多いこと!!

「もうクタクタ、お腹ペコペコだぁ。チンとかで、サッサと食事済ませてゴロンとしたいわ」とか。
「レジでピッピしてもらったら、買った物はコロコロに入れて、ガラガラは元に戻す」なんて、理解バリバリ可能でしょ。

Goedの、お風呂から寝るまでに使用したオノマトペだけでも…、
ゴシゴシ、フキフキ、モグモグ、ゴックン、カミカミ、ピカピカ、クチュクチュ、ペッ、グズグズ、ドンドンetc.


オノマトペなんて言葉を知る由もない子供の頃に見ていた、NHKのクイズ番組の"連想ゲーム"。
調べてみたら、1969年1991年まで続いたという、長寿番組。
その中で、"ワンワンコーナー"というものがあった。
キャプテンのヒントで、繰り返しの言葉を当てるというモノ。
答えは字幕で出てます、例えば「キャッキャッ」。

 中田キャプテン「叫び声」
 回答者の坪内さん「キャーキャー」 → ×
 加藤キャプテンのヒント「おさる」
 回答者の渡辺さん「キャッキャッ」 → 〇

これが面白くって、高校のソフトボール部の部室や合宿所で、時々やっちゃぁ盛り上がったもんだ。
このクイズ、他の言語ではできないのかもねぇ、日本語の豊かなオノマトペ、天晴れなのです。




なんで私がオノマトペに急に目覚めたのかというと。
先日郵送されてきた、BESSというログハウスメーカーの"啄木鳥通信vol.13"の記事がおもしろかったから。

オノマトペをピックアップして、その物語を探るという連載がある。
今回のオノマトペは、「さらさら」。
さらさらで連想する情景は??



♪春の小川はさらさら行くよ♪
雪解け水がきれいな小川を流れるイメージ。

筆圧をかけずにインクが流れる万年筆。

品よく食べるお茶漬け。

シャンプー仕立ての髪の毛。


でも、ちょっと待った。
これを、日本人の豊かな感性だと、素直に喜んで、いいのかなぁ。
Goedが、空を見上げて旋回している二羽の鳥を見て、「グルグルしてるよ」と言ったのを聞いた時、ふと思った。
英語なら、たとえ2歳児であっても、fly aroundなんちゃらって、適した動詞を使うのかなって…。


ううん、でもね、それはそうかもしれないけど、よく考えたら違う次元のおはなしなのかも。
やっぱり日本語すごいなって思い直した。

例えば雨には、その様子で異なる単語とオノマトペがあったりするでしょ☺
 霧雨 小雨 にわか雨 通り雨 お天気雨 土砂降り 大雨 豪雨
 しとしと ぱらぱら ぽつりぽつり ざぁざぁ 


折角たくさんのオノマトペを持つ国に育った私。
私らしく、オノマトペを使える人間でありたい。
Kaoruちゃんみたいに。

Kaoruちゃんのブログの中で、"さらさら"というオノマトペが印象に残る。
"さらさらと生きたい"
"さらさらと暮らす"
Kaoruちゃんらしい音だこと。







チューリップの花、咲いたⅡ

チューリップ達が、この春大いに、我が家を一喜一憂させてくれた。

芽が出た、蕾が膨らんだ、ひとつめの花が咲いた!!
ここの球根芽が出ないなぁ、風で茎が曲がっちゃったよぉ、お水あげるの忘れたーっ!!

我が家のチューリップとの生活、前半はコチラ
さて後半。

前半のブログでは、まだ桃太郎だけが花を咲かせた状態だったけれど…。
こんな風な光景が広がりました。


近所のダイエーで買った"カナスタ"。
並んだ並んだ。

買ったばかりの球根、やっぱり勢いあります。








"レディージェーン"
花も葉っぱも細くて可憐。
白い縁がかわいい。
ハウステンボスで購入。









ダイエーで買った"スプリンググリーン"。
実は、ハウステンボスでも同じものを買っていたことを忘れての二度買い。

かなりの私のタイプなり。
背高のっぽに育ちました。






"ダベンポート"
これは、ハウステンボスで買った球根。
唯一Satocchiが選んだチューリップ。
派手ですなぁ。

花びらが散った後でさえ、生命の美を感じさせてくれたのだ。







"カーニバル・デ・リオ"
これも私、かなり好きなタイプ。
ハウステンボスにて購入。




"杏のうつり色"。
はじめは黄色だったけど、数日したら杏色になった。

こういうことかぁ~。

ハウステンボスにて購入。





遅れ馳せながらもようやく咲いたのは、"アーティスト"。
これもかなり、私の好み♥

オレンジに緑のラインが入ってます。

ハウステンボスにて購入。







こちらも遅れつつも咲いてくれました。
ハウステンボスで買った方の、"スプリンググリーン"。


あとは、"ハウステンボス"。
ちょっとねぇ、咲きそうもないのよねぇ。
蕾はできてるんだけど、ちーっちゃくって、なかなか開こうとしないのだ。
なので、我が家の今年のチューリップの備忘録は、ここで〆たいと思います。






各種チューリップを真上から撮影。
球根のみなさん、我が家を楽しませてくれて、我が家のベランダを賑やかにしてくれて、感謝!!













2014年4月20日日曜日

『じゃがいもかあさん』アニタ・ローベル作

ちいさな木ぼりのおひゃくしょうさん』で、その絵にすっかり魅了された私。
その絵を描いたのは、"アニタ・ローベル"。

アニタの本をもっと読んでみたいと、図書館に予約を入れたのが、この本。

『じゃがいもかあさん』



アニタは、ポーランドのクラクフ生まれ。
5歳の時に第二次世界大戦が始まり、ユダヤ人だったアニタの家族は、ナチスからの逃亡生活を虐げられる。

アニタと弟は両親と離れ、ユダヤ人ではない"ばあや"が、アニタと弟をかくまった。
ばあやがふたりを自分の子として育て、密告者から守っていたのだ。
しかし遂に、10歳の時にドイツ軍に見つかり、弟と共に強制収容所に連行されてしまう。

1945年5月、ドイツ北部のラーフェンスブリュックの収容所から助け出された時、アニタも弟も結核にかかっていた。
スウェーデンの療養所に隔離され長い月日、療養生活を送る。

別々に生き延びた父と母と、ストックホルムで暮らし始める。
17歳で家族でアメリカに移住。
絵本作家アーノルド・ローベルと結婚。
現在もニューヨークで暮らしている。


そんなアニタが紡ぎだした絵本が、『じゃがいもかあさん』。
幼い読者に宛てて、戦争は何も良いことを生まず、お母さんが悲しむばかりのむなしいものだと訴えた絵本だ。


東の国と西の国は争いをしていた。
その間の谷間に仲の良い家族が住んでいた。





昼はじゃがいも畑を耕し、そのじゃがいもを毎日食べて、家族は幸せだった。




夜は、お母さんがやさしくおやすみと言ってくれる。
こんな日がずっと続くと思っていた。



しかし息子達は成長すると、兵隊に憧れるようになり、家を飛び出してしまう。
ひとりの息子は東の国へ、もうひとりの息子は西の国。

それぞれは手柄を立てて、高い地位へとついていた。




争いは長引き、それぞれの国は食べるものに困っていた。
高い地位についていた二人の息子達は、あの畑、あのじゃがいもが欲しかった。


おかあさんの家に、東から西から軍隊が押し寄せ、じゃがいもを巡って争いが起きた。





争いに巻き込まれて家は壊れ、おかあさんは倒れた。







後悔と悲しみで、二人の息子達は泣き崩れ、その二人を見たそれぞれ国の兵隊達も、母親のことを思い、泣き始めた。


実はおかあさん、死んでなんかいなかった。
彼らをしばらく泣かせておいたのだった。




争っちゃいけないよ。
お母さんを悲しませてはいけないよ。
争うことをやめて、みんなお母さんのもとへ帰りなさい。









争いは終わり、息子達はお嫁さんを迎え、家族が増え、みんなが幸せをかみしめた。








繊細な美しい絵、東欧文化の匂いのする絵。
やっぱりアニタの絵は、引き込まれる。

そして今回は、ホロコーストを体験したアニタだからなのか、ホロコーストに関する本の写真のインパクトを持っている私だからなのか、圧倒的な人物の多さを表した絵が、戦争の悲劇の多さを表しているように感じてならない。


私は、戦争のない時代に生まれ、もしかしたら戦争に巻き込まれずに人生を全うできるという、人類史上においては稀に見る幸せな時代を、私は過ごせるのかもしれない。

どうかどうか私達が、間違った方向に進むことのないよう、ちっぽけな私だけど、思いやりを勇気を、忘れないようにしなくては。

母親ってじゃがいもなのかもね。
地上に茎と葉を伸ばし養分を蓄え、地下にたくさんの元気な子孫を残す、じゃがいも。
母親の勇気や優しさや知識は、子供への養分になるんだね、きっと。









それからね…。

アニタの描くお母さんは、頭にスカーフ、ベスト、広がったスカートにエプロン、そしてブーツだ。
以前ハンガリーの村を訪れた時に会った、おばあさんのスタイルにそっくり。

絵の中の衣装、家具、雑貨が、東欧っぽさがあってかわいいのよねぇ。







2014年4月18日金曜日

『モンテロッソのピンクの壁』江國香緒 作 荒井良二 絵

またまた荒井良二さんの絵本を借りてみた。
荒井さん、この本では、イラストのみ。
文章は、江國香緒さん。

モンテロッソって、響きがいいね。
実際に、イタリアにはモンテロッソ・アル・マーレという海辺の町があるみたい。


あるところに、ハスカップという、いつも寝てばっかりの猫がいた。
怠惰に、ただ寝ているのではないんだって。




いつも、おなじ夢を見ているんだって。
ピンク色のそれはそれはきれいな、壁の夢。
この壁に、訳はかわからないけど、どうしても行かなくてはと思うんだって。

だから、夢の中で通りすがりのおじさんに、町の名前を聞いたんだって。
おじさんは答えたとさ。
「モンテロッソ」



ハスカップはモンテロッソに行くために、飼い主のおばさんに別れを告げる。

港に行ったけれど、モンテロッソ行きの船というものは、ない。

だけど偶然、モンテロッソへ行くという夫婦の話を聞きつけ、一緒に気球に乗る。







腹ごしらえにネズミを調達。
食べるものはおねだりせずに、自分で調達、これプライド。

料理中の奥さんにオーブンを借りてネズミを焼いておいしくごはん。








美容院を通りかかった。
飼い主と一緒に訪れた美容院、その匂い、その感覚が懐かしくなったりもした。
自分の今の身なりに、悲しくもなった。

でも。
目的地のモンテロッソへの旅は続くんだ。





旅の途中は、社会の秩序に反しようとも、自分が正しいと思うことをやり遂げたりもした。


そうして、遂に、夢に見た、ピンク色の壁に到着したのだった。
白ワインで蒸した鮭みたいな色だと、ハスカップは思った。

何日も何日も、うっとりして、ピンク色の夢の中にいるのか、ピンク色の現実の中にいるのかわからないで、自分の居場所を見つけたと満足しているうちに、ハスカップは壁のしみになっていったのだそうな。







猫って、自分で死に場所を選ぶっていうよね。
ハスカップも、死に場所に向かって、自分の欲望と正義感でやりたいことをやり尽くし、時にノスタルジックにもなりつつ、満足して、人生を全うしたんじゃないのかな。
以上、私の解釈。



私の中のモンテロッソ、ピンクの壁ってなんだろう。
母となった今は、Goedがすてきなパートナーを見つけ、子供を授かったのなら良き父親となることがモンテロッソ。

ピンクの壁は、結局は、パートナーであるSatocchiなのかな。
看取るよりは、看取ってほしいから。
でも、看取ってもらうということは、看取り遺されるあの気持ちを強いることになるのか…。
ハハハ、そんな順番、考えては行けないし、考えてもどうにもならず。

では、良きゴールをめざして精進しつつ、天に運命を任せますか。



この本の中、ちょいと、日本の地名が出てくるのも、親近感を沸かせる小技。
この本の中、ちょいと、楽しげな四字熟語がピリッと文章を引き締め、楽しく読み進める小技。
  晴眠雨明(せいみんうみん)  千載一遇(せんざいいちぐう)  吃驚仰天(びっくりぎょうてん)
この本の中、荒井良二さんのイラストが、大技。




『あさになったのでまどをあけますよ』 新井良二 作・絵

荒井良二さんがEテレで、絵本の作り方を教える番組があった。
"趣味Do楽「荒井良二の絵本じゃあにぃ」"

9回シリーズのうちの、1回のうちの、15分位しか、見れなかったけど、フムフムと感心しながら見たのだね。

お笑い女性芸人の川村エミコちゃん(たんぽぽ)の服もかわいくってフムフム度も高め。


荒井良二っさんってば、とっても有名な絵本作家だけど、絵本を読んだことがなかった。
荒井良二さんからから現れる言葉が私にインパクトをズキュン。

 ★日常に潜むスキマを楽しむ作家
 ▼日常を旅して、旅を日常する
 ▲絵本って何だろう?何をどう見て良いって言うんだろう?
 ◆創作の神様が下りてくるのを待っていたって、絵本はできない




ゼヒゼヒ読んでみたい、って思った。
まずは、あの有名な『あさになったのでまどをあけますよ』をチョイスしてみた。



山の麓のおうち、高層マンションのお部屋、川のほとりに建つおうち、南国のとある家、ちっちゃな島にあるおうちの、窓が開いて、子供達が外を眺めている。

そう、朝が来たので窓を開けたのだ。








その窓その窓を開けて目に飛び込んでくる景色は…



彼らにとって毎日見慣れた景色。
でもそれは、彼らの中で無意識に、彼らの原風景となってゆく愛おしい日常。

日常が日常でなくなる日が、やってくるかもしれないから…。








このページの絵は、日本のどこか、本当にあるのかないのか、私にはわからない。

でも、なんだか東日本大震災前の東北のどこかの街に思えてならない。
街を抜けると遠くに海が広がるとこなんかが、そう思わせる。

当たり前の景色、当たり前の朝が、当たり前でなくなった日が来てしまった。






でもまた朝はやってくる。
当たり前の時も、当たり前でなくなってからも。


当たり前の時は、当たり前の朝が迎えられたことをうれしくう想おう。
当たり前でなくなった時に、少しでも、後悔ばかり、泣いてばかりいないように。
また、あの朝を、少しでも早く、取り戻せるように。


今の私は。
朝カーテンを開けた時。
目に飛び込んでくる前にそびえる団地の建物が、今日もきちんとそびえていて、団地内のプロムナードや川沿いの遊歩道を、早朝にも関わらず歩いている人が確認できると、ラッキーって思う。

そんなちっちゃなことをラッキーと思えれば、それが日常。