中津箒を見にゆきました。
そしたら、
買ってしまいました、中津箒。
箒なんて、どのくらい手にしてなかったかなぁ。
玄関やベランダは今の生活でもチャチャッと掃くけれど。
お部屋を掃くなんて、カラカルパクスタン時代以来かな。
余談で始まらせて頂きますが。
彼の地は絨毯の文化。
絨毯を掃くときは、たらいにお水を用意して、幅のある箒の先を濡らしながら掃くのだ。
日本でもホコリがたたぬよう出がらしの茶っ葉をまくもんね。
考え方は、おんなじだよな。
植木屋時代は毎回使ったもんだ。
おっきな竹箒を寝かしてクルクル回しながら大きく掃くの。
あぁ、なんか箒って、奥が深いのかも!!
世界中どこでも大昔から人々は箒ってものを使ってたようだし、深いよ深いよ、使い方然り、作り方然り。
昔中国では枝を束ねた"帚(ソウ)"を使って床を掃いたようだ。
"掃く"という字は、手ヘンに帚。
帚に竹カンムリで、箒。
帚の女性の使い手が尊ばれた言い方の、"婦人"の"婦"なのかもしれないね。
(95%はwikiしました)
なししろ、"掃除機"の登場が、箒を衰退の道へと導いたんだね。
しかーし、衰退といえど、絶滅ではなかった。
家電べったり生活の中においては心のゆとりの象徴でもあり、現実的にも、電気は無用で音が無く、小廻りも利く、手軽で便利な掃除道具なのだ。
故に、未だに使っている人は少なくはないかもしれない。
中津箒。
1822(文政5)年生まれの柳川常右衛門は、明治維新の頃新しい生き方を求め、妻子を村に置いたまま諸国を渡り歩いた。その後、箒草の栽培と共柄箒の製造技術を学び故郷に帰った。これを起源として、箒産業がこの中津村一帯に広まる事となる。大正期から昭和20年までの間に、箒産業はますます発展し、箒草を地元だけでなく千葉・群馬・茨城・長野などから買い付けるようになった。この頃には中津村の一大産業となり、ほとんどの農家が夏場、小麦を収穫した後の畑に箒草を栽培し、男は箒を作り、これに加えて、女・子どもが内職として糸を編んだり、綴じつけたりといった飾り付けを行い、箒産業に関わるようになった。
市民蔵常右衛門(株式会社まちづくり山上代表が柳川直子さんで、柳川常右衛門さんから6代目)では、
箒作りを復活させるため原料であるホウキモロコシの無農薬栽培を進め、様々なイベントへの出展、講演やミニ箒作り講習、市民蔵常右衛門での展示販売などにより文化の復興を試みている。箒の文化に興味をもつ若手が加わり、さらに愛川町のかつての職人の山田次郎さんも加わる。
(「ほうきづくりの町、職人、暮らし」柳川直子 2003年 より抜粋)
ということなのです。
昭和10年に建てられた蔵を、市民蔵常右衛門として復活、箒の博物館も兼ねて、中津箒の製造・販売をしているというので、行ってきたわけなんです!!
ふぅ、ここまで長かったか?!
まずは見てください、この美しさと頑丈さ。
編みこみは、ギュッギュっと大変な作業だそうです。
編みこみの模様は美しさだけのためにあるのではなく、補強という大事な役目があるのです。
役もしっかりこなしつつ、あざやかな美しさも保ち・・・。
そういう人に、私はなりたい。
他にもこんなにも鮮やかな箒にも出会った。
こんな箒を持ったら掃除のテンション、かなり上がるかも!!
これはかなりのベテラン職人さんによるものだそう。
ふむふむ。
博物館も兼ねているので、1Fには外国の箒なんかも展示されていて、
こんな箒や →
← こんな箒もあって目の保養になる。
目の保養と言ったら、こんな、曲がった枝をそのまま利用した箒も
なんともお洒落。
2Fでは、こちらで作っている箒を見学。
長い箒は使いやすそう。
ん~、でも・・・。
広いおうちならともかく、コンパクトは我が家にはむしろ不向きかっ??
こんな小さな箒はGoedサイズ。
箒で掃いているものの、ゴミはいっこうに集まらない。
そんなGoedを、掃いてしまえ~。
こんなおっきな箒もありました。
余った箒草で創られた、ちーっちゃな箒やストラップもキュート。
中津の市民蔵から我が家にやってきた箒達。
今日から我が家をよろしくね。
一生、お付き合いさせて頂く所存です。
0 件のコメント:
コメントを投稿