2014年3月13日木曜日

東日本大震災から3年が経ちました

私はあの地震が会った時、日本に、いなかった。
その時はまだオランダで、帰国したのは3週間ほど経過した4月1日。

揺れこそ知らないものの、直後のことは知らないものの、今もなお傷痕を残す同じ日本にいる限り、できる限り事実を知り、私の中で風化させないようにしたいと思っている。

2011年3月11日から3年が経つ。
我が家が購読している朝日新聞は、ページをめくると、いくつもの枠で、震災で被害を受けた方々の現状や想いが掲載され始めていた。

私は毎日それらの記事を読んだ。
それが、今自分が背伸びせずにできる、あの大震災への鎮魂、自分のため家族のための今後の防災へのヒントを手繰り寄せることじゃないか、と思って。

風化させてはいけないことは、決して東日本大震災だけではない。
他にも起きた自然災害はこれまでにだってたくさんあり、人々は太古の昔から犠牲になり、その度に知恵をつけ、少しでも被害を最小に食い止めようと、技術を向上させてきた。
また、戦争、殺人事件、誘拐事件、公害、詐欺、盗難、交通事故、火災、ありとあらゆる角度で、風化させてはいけないことはたくさんある。

でも、今は、東日本大震災に重きを置かずに、いつ置くのか。

2014年3月10日現在、死者は15,884人、重軽傷者は6,148人、警察に届出があった行方不明者は2,633人。仮設住宅に住まう人達は19万人を超すという…。


新聞記事を読んでは涙を流していたが、涙を流すだけでは、いけないんだ。
防災の準備をするとか、節電を心がけるとか、毎日の何気ない営みに感謝するとか、そして、被災地を被災者のみなさんの現状を知り、何ができるか考え、何かしなければ。

私ができること。
まずは、日頃書いているブログに、心に留めておきたい記事をピックアップしてみよう。
何を私は知ったのかを、書いてみよう。


【朝日新聞 3月6日木曜日 15面】
福島市在住の詩人、高校教師の和合亮一さん 一部抜粋

相馬市の避難所の担当者に聞いた話です。夫が津波で行方不明となったおばあちゃんがいました。毎朝、「おじいちゃん、見つかったかい?」と尋ねていたそうです。なかなか遺体は見つかりません。でも、ある日、発見されたんです。そう伝えると、おばあちゃんはしばらくぼうぜんとしたあと、「やっとこれで、さびしくなれるねぇ」と言ったそうです。

さびしいと思うことさえ許されなかったんですね、言い表しようのない気持ちです。いわば、沈黙を強いられていたわけです。

※和合さんは、祖父をシベリア抑留で亡くしていることで、なぜそこで死ななくてはならなかったのか、「不条理」な死に対する想いが、強く彼の根底にあるそうだ。
私の亡き祖母も、旦那は満州で戦死したと知らせが来たものの遺骨はなく、3人の息子をひとりで育て上げた強い女性だが、淋しくなれたのか、どんなに淋しかったかと、今、想う。



【朝日新聞 3月8日土曜日 39面】
福島県楢葉町出身 矢代悠さん(高校三年生) 一部抜粋

父は東京電力社員。自宅は福島第一原発の20km県内、福島県楢葉町にあった。一家は原発事故で、震災の翌日から非難を迫られた。

父は事故の収束作業に呼び戻され、細い体がさらに痩せ、ほおがこけた。

母は知り合いから口々に「どう責任を取るの」「被害者面して」と言われた。
祖母からでさえ、「おめえの旦那が東電のせいで、どれだけ世間体を悪くしてるか」となじらていた。
「安定している東電の人と結婚しなさい」という祖母の言葉通りの選択をしたのに。

両親は会話を交わさなくなった。

テレビニュースが「脱原発デモ」を映し出す。
東京の電気をつくる原発がどこにあるかも知らなかったくせに。お父さんが頑張っていることは、誰も知ろうとしないのに。

父が責められているように感じて、腹が立った。でも、「父のことを話せば、軽蔑した目で見られる顔」と心配する自分もいた。

被災地の高校生300人を招くNPOや企業の企画で、米国に短期留学した。
他の高校生や米国の学生とディスカッションを重ねるうち、度胸がついてくるのがわかった。

留学仲間の高校生が企画したいわき市を案内するバスツアーにも、スタッフとして加わった。
旅行会社の協力で、2013年5月に始まったツアーは、第3弾まで実現した。首都圏からの客に父が東電社員として収束作業に当たっていることを話した。そして、「私たちが楢葉町に住んでいたことを忘れないでください」と伝えた。

震災後はめったに笑わず、口数も減った父。その父が口に出せないことを、代わりに少しだけ言えた気がした。

父は収束作業で週末だけ帰宅する生活が続く。父母は視線が交わることはない。
「昔のように、家族でリビングに集まって仲良く話したい。でもどうすればいいのか、わからない」

※同じく被災して避難所生活を余儀なくされていても、家族が東電社員ということで、狭間に立たされていた人達がいた。電力問題の根底を見直すことのひとつは、電気の供給方法もそうだけど、ひとりひとりの節電への意識向上、そしてその陰で犠牲を被っていた人達がいたことも忘れてはいけないのだと思った。


【朝日新聞 3月9日日曜日 39面】
岩手県陸前高田市 熊谷幸さん(28歳) 一部抜粋

10年前に故郷を離れ、大学進学、小学校教諭は1年で退職、コールセンターの派遣社員に転職。
父とは一緒に酒を飲んことがなかった。ゆっくり話したこともなかった。
母は、「こうちゃん、ご飯食べてる?」と話す声から、少しでも長く話したい様子に気づいていたが、いつも早々に切っていた。

いま話さなくたって、いつでも話せる。ずっと、そう思っていた。

インターネットの安否情報提供サービスに書き込まれた父の死の知らせに触れたのは地震から1週間後。翌日母の死もわかった。夜行バスを乗り継いで故郷に戻った。

火葬を終えて戻った東京での日々は、週1回の母の電話がなくなったほかは何も変わらなかった。父母の死も、故郷での出来事もどこか遠かった。そんな自分は冷たい人間なんじゃないか、そう思った。

法事などで度々帰郷するようになり、復興も少しずつ進み、高台にはログハウス風の小さなカフェができ、そこは人々が、癒され助け合う場所だった。
気になり、会社を辞め、故郷に戻った。

仮設でも賑わっている気になるカフェを見つけた。「働かせてもらえませんか」、思い切って店長に聞いてみた。今は、そこで働いている。

間借りした市営住宅で夜ひとり、自分の名を呼ぶ二人の声をたぐり寄せようとするが、うまくいかない。そんな時、涙がこぼれそうになる。

※探していた自分の道、薄くなりかけていた故郷や両親との関係、震災と死別がきっかけで取り戻そうとしている。私にも、自分の道を見つけようとがむしゃらで、オーナーに直談判したとか、死んだ父の声を思い出そうと、父の「あっこ」と呼ぶ声を何度も思い出そうとしたことがある。だから、他人事には思えなかった。今年のGoedの誕生日旅行で、微力だった私達の復興支援を、客という立場で形にできたらと思っている。


【朝日新聞 3月11日火曜日 38面】
岩手県陸前高田市 佐々木千佳さん(20歳) 一部抜粋

陸前高田市の「キャピタルホテル1000」は津波で全壊し、昨年11月に再開。佐々木さんは接客担当。

高校卒業後、一度は関東の看護学校に進んだ。ある日の授業で震災が話題になった。水泳部にいた友人を津波で亡くした経験を語ると、授業の後、数人の同級生が冗談交じりに言った。「水泳部なら泳いで逃げればいいのに」

予想もしない言葉に体が固まった。亡くした友人とは幼いころから家族ぐるみでつきあい、姉妹のような間柄。それをからかわれた。被災地とのあまりの温度差。孤独感が募り、耐えられなくなり、その年の秋も学校を辞め、地元に戻った。

遠方からの客に自分の経験や被災地の現状を丁寧に話すようにしている。多くの人に現実を伝えることが、あの日感じた温度差を小さくしていくことにつながるはずだからだ。

※奇しくも看護士を目指す人間が言う言葉とは思えない。しかし、それが現実なのかな。自分の息子には、自然の脅威と、死の苦しみ、残された者の悲しみがわかるような人間になれるよう、育てなければいけないと思った。


【朝日新聞 3月11日火曜日 別刷り特集7面】
2月23日 第3回メディアフォーラム「震災報道を考える」 浜離宮朝日ホールにて 一部抜粋

「福島県によると、災害関連死が、津波などの直接死を上回った。仮設住宅での孤独死、自殺など第2の震災が、被災者の現場では起きている。
住民の視点が欠落した復興になっていないかどうか、細かく見て報道する必要がある。」

「ひとごととしないためには、生活者の視点を震災報道の中で忘れてはならないと思う。先日の大雪の日、オーストラリアのカメラマンが仮設住宅を取材に来た。入居者は高齢者が多く、雪かきができず、彼は黙々と雪かきを始めた。すると住民が1人、2人と雪かきに加わり、それを撮影できた。このように、報道者一人ひとりが被災者に寄り添い、顔のみえる関係を築くことが求められているのではないか。」
(ジャーナリスト 藍原寛子)

※災害関連死:福島第一原発事故による避難者が13万人を超える福島県では、津波や地震による「直接死」の1607人を上回り、災害関連死は1,660人。被害が長期化する原発事故の深刻さが浮き彫りになった。


【NEWS ポストセブン 3月11日火曜日7時6分配信 】
震災直後にビートたけし氏が『週刊ポスト』誌上で語ったインタビュー記事「『被災地に笑いを』なんて戯れ言だ」の一部抜粋

よく「被災地にも笑いを」なんて言うヤツがいるけれど、今まさに苦しみの渦中にある人を笑いで励まそうなんてのは、戯れ言でしかない。しっかりメシが食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は初めて心から笑えるんだ。悲しいけど、目の前に死がチラついてる時には、芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。

オイラたち芸人にできることがあるとすれば、震災が落ち着いてからだね。悲しみを乗り越えてこれから立ち上がろうって時に、「笑い」が役に立つかもしれない。早く、そんな日がくればいいね。

常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。

人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。

 一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。

ひとりひとりの命の重みと、芸術や演芸の復興支援の必要性とあり方について、言葉にならなかった想いを、たけしさんが簡潔に言葉にしていて、すごく共感した。


【朝日新聞 3月12日水曜日 37面】
陸前高田市の臨時職員だった長男・タケルさん(当時25歳)を津波で亡くした浅沼ミキ子さんの言葉。

もう顔を見られなくなって3年も経つのですね。私たち夫婦に初めて授かった子供として25年間、時には大笑いし、時には涙して。そんな日常がこんなにもいとしい日々だったことを、かみしめる毎日です。

地震の直後に、お客さまを避難誘導してきたあなたと会うことができました。生き生きとした顔で仕事を遂行しているあなたを頼もしく思い、言葉を掛け合って、お互い安心して別れましたね。

あれが最後になることなど思いもせず、3月11日、停電になった家であなたの帰りを待ちました。元気よく「ただいま」と帰ってくるものだと、翌日も、その翌日も…。

10日後、200体以上のご遺体が並ぶ中であなたを見つけた時、目視では確認しても、頭の中は認めようとしませんでした。そんな中、一日一日をどう過ごしたのか、思い出すことができません。

※日常が非日常になる日は、私にもGoedにもSatocchiにも、必ず訪れること。お互いが毎日生きているだけでも有り難いし、「ただいま」に「おかえり」を返せることにも、もっと強く感謝しなければ。






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